少女

ある日、表紙に惹かれて初めて詩集を買った。

江國香織さんの『すみれの花の砂糖づけ』という一冊だ。

表紙のデザインはもちろんのこと、その手触りや字の配置が絶妙で気に入った。

といっても、カントともプラトンともわかり合えなかった私に、詩なんて読めるのか。

(そもそも詩と哲学を同じ箱に入れている時点で少しおかしい)

しかし1ページ目の〈だれのものでもなかったあたし〉を読んでそれは杞憂であったとわかった。

 

すみれの花の砂糖づけをたべると

私はたちまち少女にもどる

だれのものでもなかったあたし

 

 たった3行。あっという間に惹きつけられた。

本のタイトルにもつながるこの詩は、この一冊全体の雰囲気を体現している。

 

まず、私はすみれの花なんて食べたことがない。

そもそもすみれの花がどんなのかすら思い浮かばない。

(なんとなく紫っぽいイメージはあるけれど)

さらに言えば甘いものはどちらかといえば苦手で、砂糖づけのものなんて想像するだけで胸焼けしそうだ。

けれどこの〈すみれの花〉と〈砂糖づけ〉が合わさり、それをさらに〈たべる〉と、〈少女〉になることが本能的に理解できてしまう。

言葉の意味することをまともに受けては繋がらないのに、その言葉のイメージに想像力をのせればあっという間に正しい位置に着地できる。

言葉って、詩って、人間の脳って、不思議だなぁ。

さらに続く〈だれのものでもなかったあたし〉。

この一文が好きだ。

少女というと、なんとなくセーラー服を着た中学生と高校生の間くらいの女の子を思い浮かべる。

その頃の〈あたし〉は学校と家と通学路(と人によってはエトセトラ)という限られた世界の中で、敵なんていないのに過敏になって周りを遠ざけたり、無限の可能性に目を輝かせて無敵な感覚になったり。

それでも一人でできることなんて限られていて、結局は”家族”と”学校”の範囲を出られない。

〈あたし〉は母のものだったし、

〈あたし〉は父のものだったし、

〈あたし〉は先生のもの学校のものだった。

それでも〈だれのものでもなかった〉と感じるだけの純粋さ、または無知さ鈍感さを備えている。

その甘やかな幻覚が少女のイメージと相まって、なんともいえない甘美な響きと余韻を伴う。

 

この3行にノックアウトされた。

それと同時に悟った。

詩は自由に読んで良いもの、感じて良いものだ。

今は学校の国語の授業でもない。

私の答えにバツをつける先生もいなければ、なんだか意見を言うのが気恥ずかしくなる周りのクラスメイトもいない。

自由に読んで、自由に感じて、自由にその思いを残せば良い。

数年後、数十年後、同じものを読んで、私は何を思うのだろうか。

その頃には少女なんて英文法の大過去以上に昔のことになっているだろう。

そして自分の娘(息子かもしれないが)にそっとこの本を手渡すタイミングを探っているのかもしれない。

 

そうだ。今度すみれの花を買って砂糖づけにして食べてみよう。

その時〈私〉は〈あたし〉になることができるのだろうか。

しかし本当に花を買って食べてみる時点で少女らしい好奇心と無鉄砲さは持ち合わせていると言えるかもしれない。

 

 

椎野